美少年

 この記事はエッセイとして小説家になろうにも投稿されています。

 

 美少年が好きだ。

 

 

 

 さらさらの黒髪に黒い瞳、最高だ。金髪碧眼の子にはセーラー服を着せたい。栗色の巻き毛はなんとも愛らしい。アルビノの神秘的な美しさを見よ。

 

 それは人類の宝であり、人であって人ではない、そんな存在である。

 彼らは宝石のように煌めき、花に似て可憐であり、子犬のごとく無邪気であり、そして女神よりも神々しいのだ。

 

 なぜ私がここまで美少年が好きなのか。

 実を言うと、衝撃的なきっかけがあるわけでもなければ、深い理由があるわけでもない。ただひたすら、私の心が美しい少年を求めてやまないのである。

 

 美少年は素晴らしい。素晴らしいのだ。その魅力は語ればきりがない。そして私の乏しい語彙力では伝えきることができない。

 

 先に言っておくが、美少年とイケメンなショタは違う。この辺を勘違いしている人も多いが、断じて違うのである。例えるなら美味しいイタリアンと美味しいフレンチぐらいに違う。つまりある程度わかりづらい。

 私の持論を掲げさせてもらうと、美少年というのは「陰」の存在であり、イケメンショタというのは「陽」の存在である。その他、可愛い系ショタも「陽」に分類される。

 美少年というのは闇を抱えていなければならない。彼らの麗しく謎めいた微笑みの奥に隠された傷、昏い部分が、彼らの美しさを引き立て、私たちの心をホールドして離さないのである。

 

 この分類は何も少年だけに適用されるわけではない。「美青年」と「イケメン」の違いも同じように説明ができる。

 時々、「アタシ超メンクイなのぉ~!」とか言ってイケメンなアイドルにキャアキャア言っている女子がいたりするだろう。彼女たちがやけに毛嫌いしている芸能人がいたりしないだろうか? 顔立ちは整っているにも関わらず、「なんかキモい」「性格悪そう」「何がいいのかわからない」と言われるのである。

 このような場合、彼女たちは「イケメン」が好きで、嫌われ芸能人は「美青年」なのだ。この辺を本能的に嗅ぎ分けている女性は少なくない。「カッコいい」と「美しい」は本質的に違うものだ。両者を併せ持つものもいれば、片方しか持たないものもいる。

 

 話が逸れたが、まず彼らの素晴らしい点といえば「美しいこと」である。

 美しい少年と書くのだから当たり前だが、やはりこれが最も大切であり、原点にして頂点、基本にして真理なのだ。

 

 長い睫毛にきめ細やかな肌、憂いを帯びた瞳、ばら色の頰、すっと通った鼻筋、目立ちすぎず形のいい小鼻。血色のいい赤い唇は欠かせない。どこか中性的な雰囲気というのは、成長したら消えてしまう、まさしく美少年特有の魅力と言えるだろう。

 

 そして「美しい」とはなにも顔立ちだけを表しているのではない。身体つきもそうだ。例えば目を見張るほど綺麗な造形の少年が、身長は百五十センチであるのに体重八十キロ、丸々とした体型だったらどうだろう?

 それはそれで可愛らしいのかもしれない。というか可愛い。すごく頭を撫でてお菓子をあげたくなる。

 しかし彼は美少年ではないのだ。もし彼が美少年を目指すならば、体重をあと三十五キロ、いや四十キロは落とさなくてはいけない。

 

 美少年には儚さが必要なのである。あばらが浮き出るくらいがちょうどいい。お尻や太ももは少しぐらいぷりっとしていても可愛らしいが、手足は細く長いのが美しい。肌は一度も陽に当たったことが無いように白いのが理想である。

 もちろん褐色美少年というジャンルもあるし私も大好きだが、やはり古から受け継がれる美少年という概念に肌の白さは欠かせない。ナルキッソス天草四郎森蘭丸もタジオもみんな色白だ。多分。

 

 儚さといえば、病弱なイメージがあるのも美少年の特徴だろう。体調を崩しがちなためほっそりと華奢で、外遊びができないゆえに青白い肌をしている。なんと素晴らしいことであろうか。もちろんフィクション限定である。現実だったら可哀想すぎて見てられん。

 

 そして美少年の美しさというのも儚いものである。

 美少年は成長するとその魅力を失ってしまうことが多い。ひげや筋肉、逞しい骨格など、男性の身体的特徴というのは美少年の魅力と相反するものだからだ。

 上手いこと美しいまま成長し美青年となる子もいるにはいるが、大抵の美少年は大人になるとその美しさを失い、なんか普通、もしくはちょっと残念な感じのメンズになってしまう。ゆえに、美少年という存在はそのものが脆く刹那的なのだ。大抵の美少年が「美」をまとい始めるのは早くとも十一歳。そしてそれを失うのは、遅くとも十九歳。十歳以下の小学生はいくら顔がよくても鼻垂れのガキばかりだし、十九を過ぎれば男性はごつくなってくる。美少年の寿命は十年未満だ。

 

 この問題を解決してくれるものがある。ずばり、二次元だ。二次元なら年をとっても美しく描けるし、なんなら不老設定にもできる。実に素晴らしい。

 しかし私はあえてこれに反旗をひるがえす。二次元をこよなく愛する身でありながら、だ。

 私の考えにおいては、二次元の美少年は三次元の美少年とは別の生物なのだ。いくらイラストレーターが腕を振るおうと平面は平面、そこに彼は存在しない。

 もちろん二次元には二次元の良さがある。どうやったって人間には生えるムダ毛とかを気にしなくてもいいし、前述のように年をとらないことにもできる。

 しかし、そこに果たして柔らかな頰やさらさらの髪が実在しているだろうか? 答えはノーである。二次元は実在しない。そこが最大の欠点であり美点だと私は考える。

 

 そしてこれは完全の私の好みだが、美少年には「二面性」があるといい。

 

 一方は無邪気で無垢な顔、周りの少年たちと何ら変わらぬ彼らの姿だ。クリスマスには最新型のゲーム機やカッコいいスケボーを欲しがり、土日にゲーセンに行ってクレーンゲームの袋菓子を狙い、テスト前には課題に追われる。ただ顔立ちが整っているだけの普通の少年としての一面である。この時の彼らは紛れもなく人間であり、ただのあどけない子供。美しさと同時に可愛らしさや純粋さを併せ持つ、いわばピュア百パーセント形態なのだ。

 

 もう一方は妖艶かつミステリアスな、いわば魔性の部分である。舌舐めずりや流し目といった色気漂う仕草の数々をいとも簡単に使いこなし、なんなら意中の相手に押し倒させ(押し倒すのではない、相手に自分を押し倒させるのだ)キスを迫る、全人類のファム・ファタールなのだ。彼らのこんな姿はふとした一瞬に現れることもあれば、完全にそっちに切り替わってしまうこともある。どちらにせよ、この魅惑モードを搭載した美少年に狙われたら逃げ切れまい。瞬く間にその媚薬にも似た危険な美しさに絆され、虜にされてしまう。実に羨ましいではないか。彼らはすでに人間の子供の域を超えている。エロスすら味方につけた、ただただ耽美な一つの種族としてそこに存在しているのだ。

 

 この三千文字弱に及ぶ無意味な文章を最後まで読んでしまったあなた。

 あなたが今まで美少年のことなんか考えたこともない人だったとしても、あなたは確実に美少年愛好家の素質がある。今すぐ新規ブラウザを開いて「美少年」で画像検索をしてみてほしい。お気に入りの子が見つかったら教えてくれ。

 もしあなたがすでに美少年を愛してやまず彼らに人生を狂わされているというのなら、私はぜひともあなたの思う美少年の魅力を聞かせていただきたい。こんな感じでエッセイを書いてURLを送りつけてくれると嬉しい。泣いて喜ぶ。

 

 最後になってしまったが、この文章は小説を書くことに疲れた女が勢いに任せて書き綴ったにすぎない、ただのゴミである。私の独自解釈が多く含まれている。それは違うぞ! と思っても感想などに送らず、ツイッターか何かで呟いてくれるとありがたい。